20年前のヨーロッパ写真紀行

アラスカ上空 編集後記


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アラスカ(アメリカ合衆国)上空にて

哀愁が漂うヨーロッパ旅行の終わり

 ロンドンからフランクフルト空港に戻り、成田経由で伊丹空港行きのルフトハンザに乗り換えた。出発に先立ちボーイング747のハッチが閉まった時、悲しくなった。こんな旅行はもう二度とできないかも知れない。帰りたくない!。幼児が遊園地から帰りたくないというのと同じような気分になった。
 私にとってはこの旅行が学生時代の終止符でもあった。青春の終止符も意味していると感じた。

アラスカ

 帰りは幸い北回りでアンカレッジ経由だった。南回り(バンコク、カラチ経由)より4時間も速い。そして、上掲の写真の如くアラスカ上空の限りなく広がる雪山はとても綺麗だった。

欠航

 さて、成田空港に近づくと素人目にもエンジン1基から排気されるジェットが異常だったように思う。案の定、成田から伊丹に向かう予定が欠航となってしまった。ルフトハンザの経費で赤坂のプリンスホテルに泊めていただき、早朝の飛行機で伊丹空港に向かった。

研究論文

 そこで問題である。この欠航で、川端先生に提出するはずの研究論文が期限に間に合わなくなった。先生に、一日遅れで明日の提出になると電話すると「だめだ、今日中に提出しなさい!」という。でも、電話の向こうの先生の声は笑っている。よかった〜と胸をなで下ろす。

海外旅行にはまる

 学生時代を終え、社会人になると苦労をするのは世の常である。私も御多分に洩れず色々あった。そのストレスをリフレッシュしてくれるもの、私にとってそれは海外旅行である。その先鞭をつけたのが、この旅行である。次の旅行は2年後の新婚旅行。この旅行の一部は新婚旅行の下見だったかも知れない。ただ、新婚旅行から10年間は海外旅行に行けなかった。しかし、次の10年間は年に1〜2度のペースで海外旅行にでかけている。

パックツアーの功罪

 ただ、この初めての海外旅行で懲りたことがある。それはパックツアーのもつディメリットである。もちろんメリットもあろう。安全、確実、効率的、下調べが少なくてすむ・・・そういったメリットがパックツアーにはある。しかし、自分の意志ではなく旅行社のスケジュールで観光地を護送され自由が制限されるのは私に合わない。また、自由旅行と違って下調べが少ない分、どこを訪問したのか記憶に残らないし感動も少ない。私は写真が趣味であるがパック旅行では当然ゆっくり撮られないことがある。なにより、自分で調べ、実際に現地を観て、自分の意志で冒険したい。それが海外旅行の醍醐味だと思う。これ以後、自由旅行派となる。


●旅程概要

  昭和61年(1986) 3月

ギリシャ

アテネ (3/7) → エーゲ海クルーズ (3/8)

イタリア

ローマ (3/9 - 10) → フィレンツェ (3/11) → ヴェネチア (3/12)

オーストリア

ウィーン (3/13) → ザルツブルグ (3/14)

ドイツ

ミュンヘン → フッセン (3/15) → ローテンブルグ (3/16) → ライン川 → ハイデルベルグ (3/17)

スイス

バーゼル → チューリッヒ (3/18) → グリンデルワルド → ユングラウヨッホ → ブルンネン (3/19)

フランス

パリ → ベルサイユ (3/20-22)

スペイン

マドリッド → トレド (3/23-24)

イギリス

ロンドン (3/25-27)


〜 余談 〜

●旅行以前

 東京理科大学の大学生協で、近畿日本ツーリストのパンフレットに目がとまった。約44万円くらいのツアーだったと思う。大学の下宿生にお金はない。申込金は5千円のみ。あとは、卒業後の6ヶ月ローンにした。結果として思い切ってよかったと思う。

●往路

(成田 → バンコク → カラチ → デュッセルドルフ → フランクフルト → アテネ)

 成田発のルフトハンザ・ドイツ航空でいざヨーロッパへ。旅行社任せで、どういう経路で行くのか知らなかった。何と南回りだった。

 当時(1986年)の欧州航路は、アラスカのアンカレッジ経由(約16時間)と、アジア諸国を経由する南回り(約20時間)であったが、後者だった。約一日のフライトであり疲れた。

 最初の中継地はバンコク(タイ)だった。無論、空港の中だけであるがここが初めての外国である。百円玉が使えるのに驚いた。流暢な日本語を話すタイ人のおばちゃん店員から三百円で金ぴか豚?のキーホルダーを買った。次に中継したのは、カラチだった。カラチ?・・・どこだったけそれ・・・パキスタンだぁ!。大丈夫かなぁ? 事前の下調べがなかったので不安だった。機外に降りることはなかった・・・と思う。今になってみると、パキスタンは最も訪問したい国の一つである。

 道中、かなりの空席があった。3席を使って、行儀悪く寝ている南アジア系の旅行者も目についた。いや、行儀悪く見えたのは私が旅慣れていないせいである。そんな光景でも少し気疲れした。

 もちろん、面白いこともあった。英文科で有名なA大学英文科の同じツアーの女の子がいた。なんとこの娘の英語がスチュワーデスに通じないのだ。人のことばかりは言えない。私も、オレンジジュース下さい(Orange juice please !)と言ったら。スチュワーデスさんが「オーケイ」と、勿体ぶってニコニコしてレミーマルタン(ブランデー)のミニボトルを出してくれた。(笑)

 なんとかかんとか・・・フランクフルトに到着する。多分、デュッセルドルフ経由だったと思う。そこから、飛行機を乗り換えアテネ(ギリシャ)へと向かう。

●当時の為替レート

 当時はまだ1ドル200円前後だったと思う。そして、現在のように円を直接現地通貨にすることが難しい場面も多く、旅行社からドルのトラベラーチェックを持って行くように指導されていた。とりあえず、フランクフルトで$100をドイツ・マルクに、$50をギリシャのドラクマに換金した。それが私の両替初体験。

 旅行社にパスポートは命の次に大事だぞ!と相当に脅かされていたので、祖母にパスポート入れを作ってもらい、首に下げて更にカッターシャツの下に入れていた。そこから出し入れする姿はさぞかし滑稽だったろう。

 今の私は日本円の現金を持って出かけるし、パスポートはショルダーバックかリックサックの内側の更にチャックの中に入れている。今度、インドの田舎に行くときはさすがに米ドルも持って行こうかと思う。


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